昭和46年01月07日 朝の御理解
御理解 第84節
「おごりがましいことをすな。ものは、細うても長う続かねば繁盛でないぞ。細い道でも、しだいに踏み広げて通るのが繁盛じゃ。道に草を生やすようなことをすな。」
今日ここで、「おごりがましいことをすなと」、言うておられる。いわば思い上がるなという風に頂きたいですね。おごりがましいという事思い上がる。「細うても長う続かねば」と、ここは辛抱という事ですね。その細い道でも次第に踏み広げて行く、去年よりも今年、今年よりも来年と言う様に信心は、そういう繁盛の一途を辿らせて頂くおかげにならなければならない。
けれどもその道に「道に草を生やす様な事をすな」と、道に草を生やさない様な生き方という様なものを、今日は違った角度から頂いて見たいと思うですね。御理解第2節に「先の世までもっていかれ、子孫までも残るものは神徳じゃ。神徳は信心すれば誰でも受ける事が出来る。みてるということがない。」まあいわば、いと簡単に、信心をすれば誰でも神徳が受けられると、こう言うておられます。
しかもその神徳は先の世までも持っていかれ、子孫までも残るものが神徳じゃそういう素晴らしいものをですね、ここには簡単に信心すれば誰でも受ける言が出来ると仰る。しかもそれはもう是でよい、是で一杯と言う事でなくみてると言う言がない。ところが果たしてお互い信心をさせて頂いてる者が、どれほどあるか分かりませんけれども、先の世までも、是は持っていけれるなと子孫にも残しておけれるなと。
いわば自信というか確信がもてるほどしの、ものを頂いて信心をしておる者が、果してどれだけあるだろうか、又事実そういうおかげを受けて、残しておる人がごく少ないという事だ。「信心は見やすいものじゃが、氏子から難しゅうする」と言った様な御教えもあります。そこで私はその信心はみやすいものじゃが、私どもが難しゅうすると言う。そこの所をですね、一つ人から見たら難しいかもしれない。
はぁとてもあんた達の真似は出来んと言うかも知れない。けれども本人自身は楽しみ、または有り難い一杯で、例えば信心の稽古に通うてくる。ですからそこまで行くことが、私は信心を愈々、有り難い物にしていくんだとこう思います。若い方達はご承知じゃないでしょうけれどね、端唄に「春雨」という歌がござます。「春雨にしっぽり濡るるうぐいすの、葉風に匂う梅や香や」と言う所ですね。
最後は鴬宿梅じゃないかいなと、寝まま気ままになるならば、鴬宿梅じゃないかいな。いわゆる私どもがね、本当の意味において、寝まま気ままにならせて頂けれる、思う以上のおかげにならせて頂けれる。思う事が成就する成っていく。成就していく。それを歌の文句では鴬宿梅という事。そこで歌の文句のなかにありますね、「主はうぐいすわたしゃ梅」と言う所だと思いますね。そこで私は思うのですけれども、「主はうぐいす、わたしゃ梅」という所、ほんなら梅の木があるからというだけではいけん。
信心しとるというだけじゃいかん。それが矢張りその梅の香や、梅が香やというその、馥郁とした梅の花の香りが、辺りに漂うような信心が必要だという事。そこにはね、いわば来てくれと言わんでも、神様は来て下さる「主はうぐいす、わたしゃ梅」私が梅の花の信心をさせて頂きゃです、そこから馥郁としたおかげ「細うても長う続かねば」という所は、辛抱という事です。とにかく辛抱し抜かせて頂く。
春先にいわば他の花に先がけて咲く花です。ですから実にいわば極寒の内からです、辛抱が大事。辛抱し抜かせて頂いてそこから馥郁とした香りが漂ってくる。花が咲きほころびて参りますともうあたり一面、梅の香りで酔う如しの雰囲気が生まれてくる。私は信心はね、そこの所を頂かにゃいけんと思う。徳の香りが馥郁としてあたりに漂う。それにはね、ただ偶然とかね、腑が良かったと言ったものじゃない。
ずうっというなら暑い寒いの、そこの辛抱し抜かせて頂くという所。その辛抱があって、初めて所謂梅の花にも似た様なおかげが頂かれるのであり。そこにはいわば主はうぐいすである、わたしゃ梅そこに寝まま気ままにならせて貰えれるお徳。所謂鴬宿梅という事になってくるのである。そこでです春雨にしっくり濡るるうぐいすや、という所を少し味わってみたいですね。
もうなんとも言えない一つの風情。例えていうと信心をさせて頂くいうなら難儀な言が起こってくる。はぁこれが雨じゃろうか、風じゃろうかと思うような事がある。そういう時ほどしにです、それこそしっぽり濡るるうぐいすのである。そういう時ほどですしみじみと神様の御思いが分からせて頂くという時なんである。いうならば袖に涙のかかるほどしの時程です、人の心どんが分かるとじゃつまらん、神様の心奥ぞ知られる、ということになってこなければいけない時なのである。
信心しよって、どうしてこげん難儀な事になってきたじゃろうかなんてん言うのじゃなくてです。本当に成程叩かれりゃ痛いけれども、その袖に縋らなければおられないもの。神様なればこそと思わせて頂けれる心。この様にして鍛えて下さってあるんだと思う心。若先生が、まだ御本部で修行中の時分に、ある時手紙をよこした。その手紙の中に目下、神様と恋愛中だと言う様な事を、手紙の中に書いておる。
まあそう言う様な言が本部学院としては、えらいこう睨まれたらしいんですよね。夜の夜中にこっそり学院を、出てはならない所を外出するものですから。教祖様の奥城の前に座って御祈念をする。そこにねもうそれこそ所謂、一つの神様との恋愛感情とでも申しましょうかね、そう言うものが出来てくる。皆が寝ておる時に、しかも暑い時もある、寒い時もある。それをひそかに抜け出して会いに行こうと言うのである。
目下神様と恋愛中だと。と言う事はどげん睨まれたっちゃ、どげん悪口言われたっちゃよかと私は思いましたね。そういう事を親教会に本部から通知が来ているんですよね。勝彦さんが、昼のひがちがんだから、夜の夜中に出て行きよるけんで、居眠りでんしよるとに違いないです学業の時に。だもんだからそれを受け持ちの先生が、言うて寄こしておられる。私それを聞かせて頂いて、まあ私はどうもすいませんと言うて帰ってきたけれどですね、ご心配かけますと言うてきたけど、私は素晴らしいと思うた。
それで良いと思うた。この頃からここの合楽教会が始まって何年ですか。毎年年頭のご本部参拝が青年会であります。今年も大型バス一台で青年の方達ばっかりで、お参りさせて頂いて帰ってきた者が、みんなお礼御届させて頂くのかですね、とにかくあの奥城での、あの雰囲気というか奥城でのその石畳の上に座って、大祓い二巻奏上されたそうですが、もうそれがね、ここだけでお参りした値打ちがあったと思うほどしに、有り難いものを、皆が頂いて帰って来ておる。
いやそんな有り難いなんて言葉にゃ出せん、普通は言わない人達が、もう有り難かったと、所謂もう理屈じゃないのである。ほんなら奥城でそういう雰囲気が生まれれる程しのものをです。やっぱ若先生が学院修行中に、若先生自身がここで有り難いもの頂かな、頂く所はないと言うほどしの、そこに一つの執念の様な物が、そこにあったからそれが皆にも伝わっていくのだと思う。
ご本部参拝してからも立ちながらでも、ポンポンと手を打ってから、つうっと帰る様な人達も沢山あるんです。けれども先生がああいういわば知ってある訳です。もういうならご本部参拝はそこにかけているほどしに、まあ頂いて帰ってきたとこう言う。そういう有り難い事を知りながらね、去年は私に若先生がこんな事を言う。今年は親先生少年のご本部参拝はやめようと思いますち言う。それで私は申しました。
合楽の生き方私の生き方はね、もう一つの事が思い付かれ、一つの事がなされたらね、それが例へどのような事があっても、いや障害があってもそれをやり抜かせて頂くというのが、合楽の生き方なんだ。そんな事でどうするか行きなさいと私が。どうもこの頃青年会が不振だと言った様な感じがあったからじゃないだろうかと思う。所がそうではない。やはり、いうなら青年会の方達の、選り抜きと言われる様な方達ばかりが、やっぱり四十五、六名ですか、丁度バス一台ですから、お参りさせていただいた。
そして本当に思いとどまらずに良かった、おかげを頂いてよかったと、言わばよかったじゃない、有り難かったと言うて帰って来た。いうなら合楽のご比礼をご本部へ、又は去年などは青年会が出発にあったて頂くように、九州のご比礼だとまで神様は言って下さった。それはそうでしょうね、年頭にご本部参拝バス一台でしかも青年の、若い人達ばっかりがお参りをするというのですから、これは九州のご比礼です。
細うても長う続かなければと言うのは、それだと私は思うです。それが続かなければですね、本当の繁盛になっていかん。所謂寝まま気ままにならんてそれでは。所謂鴬宿梅にならん。あの世まで持っていけるものにならない。私は合楽の皆さんにはどうでも所謂、ご神徳を受けて頂きたいと思う。先の世まで持っていかれ子孫までも残るほどしのご神徳を受けて頂きたいと思う。そのためにはですそれこそ、只今神様と恋愛中と言った様な信心がなされねばいけん。
皆さんが朝こうやってお参りをしてみえれる。それこそ神様がこうやっておいでおいでしござるごたる感じで、もうそれこそぐずぐずどんはしておられん。走って走れ込んで行きたい程しの思いというか勢いを、信心の上には頂いていかなければならない。そういう雰囲気がです、私はね「しっぽり濡るるうぐいす」のというのじゃなかろうかとこう思う。天地金乃神様の御威徳というか、お徳というものを色々にまあ表現する人がおります。いわば天地の親神様は、いわば全知全能だと言う風に申します。
ところがいかに天地の親神様がです、全知全能でおありになっても、私共がねその全知全能でおありになる神様の御威徳を頂くと言う事は、神様がそういう物を持っておられるものを引き出すと言う事なんだ。だからそこには人間の知恵、力ではどうにもできない働きというものが所謂、成程神様はどういう事でも、所謂全知全能でおありになるなぁと言う事になってくる。
どんなに神様が全知全能というてござっても、人間がね人間氏子の働きというものに依らなければ、その全知全能を表して下さる事は出来ない、いわば仕組みになっている。天地と私どのも関係というものは。そこで「信ずれば成る」である。私共がねその全知全能でおありになる神様を信じきる所からね、神様の働きというものを引き出す事が出来る。神は信じるものを信ずると言う事になってくる。
いうならそこに死人がよみがえる程しの事が出来て来る。どんなに考えても人間の知恵、力では出来そうにない事が成就して行く。信ずれば成るである。そこを私共はお取り次ぎを頂いておかげを頂く。御取り次ぎ金光大神のそういう御神徳に頼んでの、いわばおかげと言う事になってくる訳です。これは頂かれようけれども、これは頂けないというはずは絶対ない。その絶対の所をです中々頂けない訳です。
いわゆる「絶対信」と言う事。その絶対信のいわば、おかげを頂く所にです、私はいうならば人が何と言うても、がむしゃらなまでにもいわば一にも押し、二にも押し三にも押し。人がそしろうが笑おうが、そこに水差す人があってもです、そこん所を押し貫いていこうとする、私は姿勢が必要である。そこから成程と言う様なおかげが頂かれる。成程神様は全知全能でおありになられるなと言う事が、まあ小さい枠の中ではあるけれども、分かる。それがだんだん大きくなって来る。
いかに信心がね、積極性を持たなければならないかと言う事がわかります。まああの人にコリをつませちゃならんから、この人があげん言いよりなさるから、あちらの顔も立てなならんと言った様ないうなら、体裁のよいというか、体裁のよい信心でもしよっては、今日私が申します所は分からない。誰が何というてもいい、私はこうと決めたらこうと突き進むのだという生き方が大事。
そこでまあ分かりやすく思わせて頂く事はです、今日はどういう訳、こう言う様な、いわば、端唄「春雨」などという、いうなら艶っぽい御理解がね、頂いただろうかと私は思うておる。是はね私と神様と、私共と神様という仲というのはですね、ただ本当に金光様の信心が有り難い、まあ金光様の信心は素晴らしいとですね、遠くから眺めておると言った様なものでは絶対良いものは生まれてまいりません。
いうなら頭で分かった信心では、役に立ちません。素晴らしいと頭で分かっただけでは。実動的なものになって行かなければならない。例えばあの女が好きだと思ったらね、もう積極的に一にも押し、二にも押し、三にも押しで押していかなければいけない。男女のそれと同じ事。例え向こうが好かじゃったっちゃです、こちらの思いの通りにしたら、いわば相手の方もまたこちらの方が好きになってくれるものと同じ事。
神様と私共との間というものはね、そういう物。ただ素晴らしいと向こうにある人を眺めておるといったようなものじゃなか。だからそこにはもうその事を成就する事の為には、あの手この手を惜しまない。そこにあの手この手という程しの、ああでもなかろうかこうでもなかろうかという修行が成されるわけです。心の中にも思い続ける。どうしたならば、あの人の自分の意中の人、自分の思うようにしようかと思う時に、あの手この手を考えるのと同じ事。
一生懸命お参りもして見る一生懸命お供もして見る。一生懸命にいうならあられもない行でもして見る。だからそういう、例えば一つのまあ分かりやすく言うとです。男女の間の事、又は、恋愛感情の事とおんなじ様な物が、天地と私どのも上にも必要であると言う事。そこから一体にならせて頂く、いわば寝まま気ままにならせて頂けるお徳というものが頂ける。いわばそういう物をうみなして行くことが出来る。
その時に初めてね、神様なるほど全知出あるの、全能でおありになるなと言う事が分かって来る。頭の上でわかったっちゃつまらん。教祖はそこん所を、身を持って自分が体験しておられる事が、いわばあいよかけよで立ち行くと言うのはそのことなんだ。私がどんなに力があっても、氏子に信なければと仰っておらるのはそれなんです。氏子との間にです、火花を散らす程しのいわば事柄を事柄というかね。
信心の上にそういうものが生まれてくる。いわゆる目下神様と恋愛中と言った様な所になってくる。そこからいわば鴬宿梅のおかげを受けて行かねばならない。昨日も私は、ある方に申しました。寒修行第一日にお参りにきなさった。ちぃっとばかり風邪の具合のが悪かったごたる。あんたほどしの信心させて頂く者が、ちぃっとばかり風邪ん具合の悪かって頭痛かてん。もしそこにです神様の、例えばそこにもしお試しがあったとするならばそれだけで全部、あんた落第じゃないのと私が申しました。
あんたどんが信心がそげな風じゃからです、はぁよか信心と思うてこっちは胸わくわくしてから、あればいっちょ突き進んで行きゃと思うて、思いよら愈々大事な時の、さぁ寒修行の第一日と言った様な大事な日に、今年こそは寒修行に一日でん欠かさんぞと思いよってから、ちいっと頭痛かったり風邪具合悪かったり、表へ出るなら雪がいっぱい降っとるもんじゃけんで、ああ寒かちいうて、また布団中にはいっとるに違いなかったいち言うて、私はその方にいうんです。
その方がくうっとしてしまわしゃったばってん、言うとかないかんと思って私は言うた。そげなことではね、折角ここまでのおかげを受けておってから、いうなら九分九厘まで頂いとってからそこで落第したらまた、元の一からやり直さんならんじゃないかと。はぁ頭が痛いこりゃ神様がお試し下さりよるぞと、表に出て見たら雪が降っとった、なお元気が出た。そういう信心でなければいかんち信心は。
しかも願いはこういうあんたは願いを掛けとるじゃないか。こういうおかげを頂きたいと、いつも思いよるじゃないか。そういう大きな願いをかけておるものが、その位の事でへこたれてどうするか。是は皆さんに言っている訳じゃないですよ。そういう思いを言わば発心したならですよ。おかげを頂かんならんからこういう信心させて頂きますと、いうなら発心が出来たならばです、その発心というものが貫かなければ駄目だ。神様のおかげを下さろうと思うから引いたり、押したりのお試しもあるのだと。
その試験に合格してこそ、そのおかげが受けられるのじゃないか。こんな人はいらん。それがです、それこそ「主はうぐいす、わたしゃ梅」と言う様にですね。そこの所の本当の味わいというか、神様の前に出て、神様と私との間に交流するいわば一時。その時の事を思うたら頭痛いとか寒い、つらいぐらいの事は問題じゃないと。そこを貫かせて頂いて、初めて鴬宿梅のおかげになるのだ。そういう所をですね、天地と私共との関係というものはねその、今日私がそういういわば。
粋な例をとってお話を致しよりますがね同じなんです。神様と私共が本当に、神様と共に喜びあえれると言う事、喜び合えれると言う事信心とは。そこからしか良いものは生まれてこない。そういう信心が出来てきたらです。それから道に草を生やさんように精進する事が大事であります。一様ね合楽の方達の場合なんか、そういう境地にスーと入って来る人達が非常に多いです。所がね所謂「おごりがましい事をすな」と言う事を、今日は私は「思い上がり」と言う風に申しましたね。
それはどういう事かというと、そしてですね、どういう風な事を思いよるかと言うと、「もう、自分は神様に好かれとる」とこう思うとる。もう自分な神様に惚れられとると思うとる。思い上がりです。そして少々御無礼したっちゃよかち思うてから、いわゆる道に草を生やす様な事をするのです。あの時にはあのように、それこそもうそれこそ神様との間の中に、それこそ水を差そうともさせない程しの、熱いものを頂いておりながらです。人間の思い上がり。
もうあれは、俺は参っとるからとこういう。そして他ん事どんしよる。そこん所を今日はおごりがましい事をすな、思いあがるなと言う事です。所謂最後の道に草を生やすな、そういう思い方が道に何時の間にか、草が生えてしもうて、また初めから道を作り直さにゃんごたる結果になってしまうんです。どうぞ一つ端唄「春雨」ではないですけどもね、ひとつ「春雨にしっぽり濡るるうぐいすの」と言った様な。
いわば信心がねそういう一つの情緒というかね、所謂そういう信心のその信心にそこん所の味わいを味合う者じゃなからにゃ分からない雰囲気が。そこん所をおかげ頂いて、御神徳はあの世にも持って行け、この世にも残していけるほどしのもの。しかもみてるという事がない。それこそ寝まま気ままになる。御神徳を頂いて、それこそ天地が自由に成程しのおかげを頂いて。鴬宿梅に治まっていける程しのです、おかげを頂きたいですね。
どうぞ。